NO.77  2007・03.17    

田村こどもクリニックで勤続10年以上のベテラン看護師



~出身は物部村黒代(クロダイ)~
 国道195号線を車で東へ山奥に向けてひた走り、土佐山田町、香北町を抜けると物部村になります。(今は香美市物部村と変わりました。)春には、花見や山菜取り、夏には湖水祭でにぎわうのどかな村です。私が生まれた黒代は物部村でも奥深い山合いにあり、幼少時は牛、やぎ、にわとりを飼い周辺の田畑では季節ごとにおいしい野菜、果物が採れました。昭和30年代のことですから、おやつは干しか、蒸しパン、ふかしいも、茹できび等の毎日でした。

~そして京都に~
 小6~中1まで父の仕事の都合で京都(宇治市)で過ごしました。京都といっても引っ越し先は、野ウサギやいのししが出没するような山間部で生活はあまり変わりません。住んでいる人達が温かくよい思い出ばかり残っていますが、転校先の学校の修学旅行が終わっていたため小学校時代の修学旅行の思い出がないのが残念です。

~看護婦への道~
 高知に帰ってきて中2の頃、父が仕事中に怪我をして入院しました。その救急病院で看護婦さんが働く姿にあこがれと感動を抱き、看護婦になろうと決心しました。
 ちょうど昭和46年頃は中卒者が“金のたまご”と言われた時代で就職先も多く重宝がられました。私は救急病院に住み込みで見習いをしながら看護婦になる道を選びました。午前中は病院での仕事をし、午後は看護学校に学び、夜間は定時制高校へ通うという生活を5年間続けました。就職先が救急病院のため救急搬送が多く、驚きと怖さで一歩後ろへ下がる毎日でしたが、先輩看護婦の指導や温かい励ましで少しずつ慣れていき、なんとか一人前の看護婦にしてもらいました。

~結婚・子育て~
 昭和51年に結婚、その後2男2女をもうけています。21歳の初々しい頃、長女が生まれました。産休は2ヵ月とり、その後は当時には珍しく院内託児所があった為、子供を預けて仕事を続けることができました。朝母乳を飲ませて預けに行き、午前と午後授乳をしに託児所へ行きます。忙しいときはなかなか飲ませに行くことができずいろいろと大変さはありましたが、なんとか母乳育児ができました。労働条件の確立不十分な当時にしては恵まれており、ありがたく思いました。
 そして、長男を出産。また同じように母乳育児ができました。当時は母乳パットがなかったのでタオルを胸に当てて仕事をしましたが、仕事帰りにはしぼれる位にぬれている、もったいなかったです。そして、次女が生まれその後、約21年間勤めていた病院を退職し自動車免許を取ったり、のんびり気分転換している時次男を妊娠し出産しました。そして平成7年からは田村こどもクリニックで勤務しています。

~孫育て~
 現在長女に子供が4人でき、9歳、7歳、1歳、6ヵ月の孫がいます。全部女です。我が子と違い孫には責任をあまりもたなくていいというか、つい甘やかしてしまいがちです。数年前は小さくてかわいくてたまらなかった孫が大きくなり、自我ができ反抗したりすると“ムッと”きて同等になって怒ってみたり・・・。めまぐるしく成長していく孫をみていると微笑ましく癒されます。
 孫育てには、お金は出しても口出しをしない方がいいかなとも思っています。

~趣味~
 時間が出来たときは、絵画や写真展巡りをしています。騒がしい日常から離れ、その前で自分が一人で居られるのが好きです。
 週一回フラワーアレジメントにも通っています。院内にも飾ってますので腕前も一度ご覧下さい。
 少し韓流の流れに身をおいて、もう少し仕事を続けながら空いた時間を有意義に使っていきたいと思います。


      

*田村こどもクリニック*
http://www.inforyoma.or.jp/tamkocli/