NO.76 2007・01.20    
ついに、回ってきた・・・ です。


~出身は徳島県脇町~
http://www2.incl.ne.jp/~zunkel
 脇町といえば、江戸から明治時代の藍商人の屋敷が400メートル位続く“うだつの町並み”として有名になり、観光客が訪れています。 “うだつがあがる、あがらない”と言われるようにうだつがあがった立派な旧家が建ち並んでいます。この周辺は南町と呼ばれている地区で私の友人宅もこの町並みにあり学校帰りによく遊びました。今では、重要文化財建造物群として保存されているので、変われば変わるものだと思います。脇町保育園から脇町高校までずっと脇町でした。

~小さい頃からの夢~
 私は二人姉妹で姉は看護婦をしています。小学校の頃より大きくなったら看護婦さんになりたいという思いがとても強く他の職業を考えたことがありません。ナースキャップをかぶり白衣を着て手にカルテを携えてやさしそうに微笑む姿に憧れたんだと思います。しかし、姉に“看護婦は大変な仕事でおしっこや、便の介助もしないといけないし、夜眠たい時も起きて仕事にいかねばならないから考え直したら・・・”とよく言われました。それでも意志をまげず、大学進学も全く考えずに高校卒業後、徳島大学医学部付属看護学校(現・徳島大学医学部保健学科看護学領域)に入学しました。

~看護婦への道~
 初めて親元を離れて寮生活を始めました。当時は看護婦不足のため授業料は免除、寮費は無料という、今では考えられない良い環境で勉強しました。コンパ、合ハイ、楽しい事も数多く経験しました。
まだ仕事をしたくないしもう少し遊んでいたいなと思っていた看護学校三年の秋頃、産婦人科病棟で分娩の見学をしました。その時助産婦が産婦を励ましながら共になり、上手に誘導し胎児を娩出するのを見ました。医師は立ち会っていますが手は出しません。“私はこの仕事をしよう”この時切に思いました。そして母を説得し、もう一年徳島大学医学部付属助産婦学校に進学し22歳の春助産婦の資格を取りました。今では、看護師助産師と呼ばれていますが、私は昔から呼ばれている看護婦、助産婦という呼び方に愛着がありこの方が好きです。

~助産婦として~
 はれて助産婦となり小松島赤十字病院(現・徳島赤十字病院)に就職しました。いきなり産婦人科病棟で助産をするよりも2年間は他の科をまわり経験をつんでからの方がよいという病院の方針で新生児室に配属となりました。最初はショックでしたがこの経験が今とても役立っています。それから内科病棟、外科病棟(透析を含む)をまわり、待望の産婦人科病棟に配属されました。ここでの6年間で700人位のお産の手伝いをさせていただきました。
 大晦日に6人くらい続けて産まれ、紅白歌合戦どころじゃなかったり、日勤で入院した妊婦さんが次の日出勤してもまだ分娩に至らず、ずっと陣痛が続き、疲れてヘトヘトになっていたりしました。それでも頑張らなければならないお産というものの大変さを知らされ、また長い時間共に励まし合い、無事分娩を終え感謝されたりといろいろ思い出があります。当時は分娩の経験も子育ての経験もなく十分な技術さえもなくお手伝いさせていただいた事を今でも申し訳なく思う事があります。

~高知にきて~
 28歳で結婚し高知に来ました。高知は小学校の修学旅行で来た事以外“へんぴな所”というイメージしかなかったです。1年間高知大学医学部付属病院で働き妊娠して育児休暇を取りました。
長男は母乳をとてもよく飲んでくれたのですが、何もかも初めての経験なので“子供は一人で十分”と思う程大変でした。 お乳は飲んでいるのに夜中1時間毎に起きて泣くため、ミルクを作って飲ませたらあと1時間は余分に寝てくれるんじゃないかと思い、ミルクを作っても人工乳首をくわえずよけいに泣いたり。専門職の私がこんなに大変なのに世のお母さん方はどんなだろう、“お母さんはエライ”と思いました。そして一年後に仕事に復帰しましたが、長女出産のため退職し、憧れの主婦業をしていました。長女が幼稚園入園の頃、産婦人科外来勤務を要請され外来の手伝いをしましたが、これも椎間板ヘルニアのため1年間位で退職しました。
 そして1994年から当院で働いています。主に、母乳相談、育児相談をしていますが、小児科でも又助産婦が必要である事を痛感しています。
 お母さん方の抱えるたくさんの悩みの重さが少しでも軽くなるよう支援していきたいと思っています。そして若さを保ちつつ、好きな事をして自分を磨いていきたいと思います。

      

*田村こどもクリニック*
http://www.inforyoma.or.jp/tamkocli/