● わたしたちのいーぶん●●●
第3回母乳育児検討会に出席して
開業助産師 古川 智代
今回のテーマは「母乳育児の歴史」でした。はじめに、担当の方から「人類始まって以来、
『母乳』という種の保存にとって不可欠な能力を、なぜ、わずかな期間(日本では第二次世界大
戦後の20〜30年の間)に見失うにいたったのか?
母乳に何が起こったのか?ということを考えてみたかった」という疑問からテーマは「人工乳の
歴史〜もしくは、いかにして日本中を席捲できたのか〜」でした。その内容は、1400〜1600
年頃から孤児の救済を目的に獣乳が代用母乳として用いられ、18世紀に酪農が盛んなスイスで、
牛乳を原料にした代用母乳の開発が進んだ。公衆衛生の低い時代に、与えられたミルクによって
1つの孤児院で100名中99名が死亡したという。それは、まるで人体実験のよう。20世紀、世界に広がる市場が莫大
な利益を生むと考えられた時から、ミルク会社の促進活動に拍車がかかり、サンプルの無料配布、ミルクナース(ミルク
会社に歩合制で雇用され、調乳指導や宣伝、営業を担当した看護師や栄養士)の派遣、第3世界(発展途上国)へ人道支
援の美名の下、ミルクが大量に送られ、その結果、深刻な栄養不良と死亡例が続発した。その影には何処の国でも、ミル
ク会社の陰謀に加担し、利益を一緒に享受した人々がいた。
ついに粉ミルクの不買運動、WHOの母乳代替品のマーケティングに関する国際基準が設けら
れ、アフリカ、アジア諸国、ヨーロッパ、アメリカでは急速に母乳栄養が盛り返してくる。
しかし、未だにWHOの制限をかいくぐり、フォローアップミルクと名前を変え、食品とし
て、いつでも、どこでも買える状況にある。日本では、第二次世界大戦の敗戦後、病院分娩
の増加に比例して、人工栄養率は増加し、森永の砒素ミルク事件はいつしか忘れ去られ、ミ
ルクの不買運動もおこらず、1970年代には母乳栄養率が30%に落ち込んだ。現在でも、相
変わらず産院の退院お土産の中には粉ミルクのサンプルがどっさり入り、母乳栄養率は
40%そこそこと、その内容は暗黒の歴史の中にあるというものでした。
司会の弘田さんが、ご自分の子育ての中で、粉ミルクの添加物に関する怖い情報を得た経験を話されました。それに
対してある医師から「今さら粉ミルクがどうのと言っても、お母さんたちは関心を持たない。それより、母乳の利点(経
済的、免疫、情緒の安定)といったことを言ったほうが良い」と言われ、以後、突然竹内さん、調査協力の松枝さんの話
を聞かなかったように、話はどんどんそれていきました。そしてなぜか医師は「乳業会社が病院の中へ入り込める状況を
作った制度に原因がある」と結論づけ、ミルクを野放しにしないために、薬と同じような規制を設けるなどしては、とい
う意見に対しても、法律を変えることは困難と断定的に言ったのです。
私たち医療従事者は、ミルクの必要性を十分認識しています。しかし、必要以上にミルクを広め
た、いや、はびこらせた責任があるのではないでしょうか?
安易に利益を生むものとして利用し た人々と無知な医療従事者の招いた結果ではないでしょうか?今このことを反省し、真剣に、ミル
クに対する警鐘をならし、お母さんたちに正しい情報を伝える対策を講じないと、いけない時期な
のだと私は感じました。
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